紅葉には十日ほど早いある日、朝から鈍色の空に覆われていた日光に小雨が降り出し、輪王寺の境内は夕暮れを待たずに翳り始めていた。
 「今年の夏は暑い日が少なかったから、いい色に染まるかどうか心配ですね。」
案内して下さっていた足立さんの言葉がふと途切れた。見ると、体を二つ折りにし、早くも濡れ始めた草地にベージュ色のズボンの膝頭が汚れるのもいとわず両膝をついて背中を丸めている。
 カメラのフレームを形作った両の手が眼に近づき、しばらく空を上下する。
 足立さんをとらえたもの。それは一本の曼珠沙華だった。雨を吸って色味の増した草叢の中に、鮮やかな朱色が咲いていた。
 背景の杉木立の深い緑と拮抗する一点の朱。
「いいものを見つけたよ。明日が楽しみだな。」
 格好を崩してつぶやきながら、足立さんは何度も頷く。
 日光に生まれ、日光に生きて51年。カメラを持ってから30年になる足立さんの写真は、そのほとんどが日光を撮り続けて現在に至っている。
 「どうして日光ばかりを、とよく聞かれるんですがね。こんな美しい、すべて超一流のものばかりが揃っている土地に生まれたんですから、心が動かされない方が不思議だと思うんですよ。」
 胸の底を洗うおいしい空気。四季の移ろいを見事に展開してみせる自然と、あふれる光。日本の美の一つの頂を極めた建築物。
 日光は確かに美しく、そしてこのように美しい土地は日本各地にたくさんある。が、その土地を故郷に持ち、何十年かを過ごした今でも、まるで一目惚れをした女性の魅力を何のてらいもなく賛美する青年のような情熱を保ち続ける人は、やはり希少なのではないだろうか。

(1)

 父親友文氏は、弁士と伴に全国を旅するトランペット奏者だった。北は北海の荒波、南は桜島、西は朝鮮まで、数々の土地を踏んだ父君が、もし永住するならこの四ヶ所だと指折ったのが、宝蘭、石巻、京都、そして日光だった。
 大正九年、友文氏はこの地のある企業に吹奏楽部を創設して職を得、土地の女性と結婚して音楽の旅にピリオドを打つ。 音楽家だった父親から受け継いだ感性が、足立さんの中で写真という形式を得て実り始めるには、まだしばらくの時間が必要だった。

 
「戦争でそれまでの生活はすべて崩れましてね。戦時下で音楽をする人間なんていわば国賊扱いでしょう。で、終戦の年末、15歳のとき大阪の電機会社に働きに出た。ところがふた月もしないうちに、一緒にいった仲間が私を除いて全員泥棒にあって身ぐるみ剥がされてしまった。私のおふくろというのがしっかりした母で、小さい時にから大事なものは肌身から離しちゃいけないと言いきかされていたから、私だけは無事だったんですが、なにしろまだ子供でしょう。皆なが故郷に帰るというので、一緒に帰ってきてしまったんです。」
 帰郷後、日光中学校で五年余り事務をとり、21歳のとき、輪王寺に勤務することになった。当時の新制中学の教師には、僧侶が動員されたままになっていたケースが多かったが、世情が落ち着くにつれ“先生”は寺に戻る。足立さんもその動きに誘われ、見内の猛反対を押し切って寺に勤める決意をした。
 「勉強する時期がなかったでしょう。寺なら勉強できる。日光の歴史もたくさん学べると思ってね。それに若かった。反骨精神って奴があったから…。」
 寺に入ってまもなくカメラに没頭するようになるが、そのきっかけに話が及ぶと
 「いやぁ、その話し。勘弁して下さい。」
 いつも微笑の耐えない気さくな顔がこころもち紅潮あい、両手が大きく振られる。淡いロマンスを失い、その心の隙間を埋めるためだったとでも推測しておこう。
 初めて手にしたのはコニカ、当時のお金で三七八○○円。これが「タンス一棹分にもなりますか」という日光の表情を撮り続ける出発点となった愛機である。
(2)


 足立さんの秘蔵の一つに、何十冊かの手帳がある。何度も操られた証拠に、黒ずんだ紙の端はふくらみ、各ページの右側には細かな数字と文字がびっしり並んでいる。赤いサインペンでOKの文字がときおり書き加えられているこれらは、大切な撮影記録。写した場所と日時、そのときの風の動きや雲の量や地のり、使った機種と工夫点、失敗した点などを克明に記録したデーターバンクである。
 彼岸の頃はどの湖の夕映えが一番美しいか。夏のキスゲ平の月の出をとらえた地点は?去年、大猷院に初雪が降ったのは何日だったろう。日光のあらゆる場所についての四季おりおりのデータが、足立さんの体と愛機を通してここに刻まれている。
 「一本のもみじの紅葉が本当に美しいのは、三六五日の中のわずか数時間です。何日も待ってはくれない。自然は生き物なんですねぇ。」
 その何時間かの美を定着させたいために、昼休み、昼食抜きで愛車を飛ばして奥日光まで駆けつける。白樺林の奥、燃え立つ炎のようなもみじが、足立さんの到着を待っている。
 -ご飯は三つのときから食べているんだから、一食抜いても死にはしない。好きなものというのはこんなものだろう-
 データーバンクは、写真の一枚一枚にまつわる足立さんの思い出の宝庫でもある。
 日光連峰の東端、赤薙山の東南斜面、霧降高原は、春になるとツツジの大群落、夏は有名な日光キスゲが黄色の絨毯をしきつめる。この黄色が、朝陽を浴びて黄金色に輝き渡る。その変化の一瞬をカメラに収めたいと思い、データーが示す日に狙いを定めて前夜から野宿する。最終リフトを降りてさらに一時間、重い機材と寝袋を背負い、明朝の天候を気にしながら星空を眺めて眠りにつく。
 突然、目覚まし時計に起こされる。夏といっても高原の朝は寒い。冷気に顔を洗われ日ノ出を待つ時間、これ以上は望めない静寂の中で視線だけが地平の一線に絞り込まれる。
 -日ノ出だ-
 夢中で、しかし冷静にシャッターを押す。愛機のまばたきの音と、自分の心臓の音が重なる。太陽よ、もっとゆっくり昇ってくれ。こんな素晴らしい日ノ出は、今までに出会ったことがない…。
 「写真を始めて知ったのは、待つ時間の長さと、その楽しさですね。」
 樹木の梢を渡っていく風の音を聴きながら、湖面を走るさざ波を追いながら、草いきれの熱さと、降る雪の匂いに全身をゆだねながら、足立さんは脳裡に浮かぶさまざまな思いと対話する。煙草が楽しみで寡黙でおおらかだった父親。青春の思い出を忘れきれず酒に溺れていた若い日を黙って見守り続けていた母親。その二人を数年前つづいて送った前の半年間、病院に泊まり込んで看病した日々。そして…ここの波立ちは、対象が足立さんの眼前ですべての形を整えた瞬間、シャッターに触れる感覚と同時に無に還る。


(3)


 足立さんの写真に、土地っ子でなければ出せなかった味を加えていったものには、メモ帳の他に、輪王寺強化部を統括するという現職の強味がある。今年で在勤30年。この歳月は、輪王寺を含む日光の宗教史の逐一を撮り続けてきた、職業人としての足立さんのもう一つの顔を物語っている。
 修復直後の、黒い扉を閉じて駒寄せも立看板も一切ない陽明門。黄色の紙を巻いた特別製の灯明に火を点け、供養を兼ねてとった石仏群。さまざまな行事とそれを節目に息づく僧侶たちの日常など。二度と撮れない写真があり、その一枚が生まれるまでには、長い時間と知識と、選択されて除かれた何十枚かの写真がある。
 「全くの偶然というものには期待しません。チャンスは作りながら待つ。待ちながら作る。だから掌にのるほどの美しさが空の広さを圧倒することもあれば、見渡す限りの自然が、一枚のネガにおさまることもあるのだと思いますよ。」
 人が巡らす視線の高さには限りがある。その限界以上のものを撮ってみたいという想いが、足立さん特製の「お化け三脚」を発案した。高さ3m。ある日植木職人が使っていた脚立に目をとめ、金物屋に頼み込んで改造した秘密兵器である。あるいは、写真に賭ける熱が昂じて、ブロニカや、アサヒペンタックスの本社にカメラの改良点を直談判をすることも再三だったが、その結果、
 「日光に面白い人物がいる。」
 と、社を通じて、有名なプロカメラマンが案内を請いに足立さんの元を訪れ出した。愛車で彼らを各所に案内しながら、足立さんは蓄えてきたデーターを惜し気なく披露する。
 「もったいないな、先に撮られてしまったらとも思いますよ。しかし無名な私が撮るより、有名なプロが発表してくれたら、それだけ広く日光の美しさを知ってもらえるんですから。」
 足立さんが胸襟を開けば、相手も自然にそれに応えて、プロの技術を教えてくれる。
 「足立さんにはウソはつけないねぇ…。」
 こうしてアマ・プロを問わず写友が集まり、刺激の材料となり、一緒に“一瞬”を待つときの相手となって心をなごませ合う。
 人と人、人と自然との縁の深さ、限りなさ、そして貴さ、数センチ四方の世界に織りなしていく作業。
 −どうです、素晴らしいでしょう−
 晩秋の小田代ヶ原を撮った足立さんのメモの最後にはこの誇らしいひと言が記されていた。

(終)


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