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日光のはじまり−関東の一大霊山「日光山」−
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華開く仏教文化
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延年舞【えんねんまい】
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時代は移り、唐の文化が伝わり、平安京への遷都など、新しい息吹のなかで日光山にも中央の文化が流れ込んできます。
真言宗【しんごんしゅう】の開祖といわれる弘法大師空海【こうぼうだいしくうかい】が平安時代の820年(弘仁11年)日光に来山され、滝尾権現【たきのおごんげん】と寂光権現【じゃっこうごんげん】をまつられたと伝えられています。このとき「二荒」を「日光」に改められたそうです。
天台宗【てんだいしゅう】の慈覚大師円仁【じかくだいしえんにん】は、平安時代の794年(延暦13年)栃木県壬生の手洗窪の生まれと伝えられています。
円仁は、日光山霊峰に対しての崇敬の念が厚く、15歳のとき出家し比叡山【ひえいざん】で最澄【さいちょう】の弟子となりました。
後の838年(承和5年)遣唐使【けんとうし】に従って唐に留学され、数多くの法難に遭いながら書かれた旅行記「入唐求法巡礼行記【につとうぐほうじゅんれいこうき】」を残されています。マルコポーロの「東方見聞録【とうほうけんぶんろく】」、玄奘三蔵の「西遊記【さいゆうき】」と共に世界の三大旅行記といわれています。
この旅行記は、ハーバード大学教授ライシャワー博士によって英訳され円仁の素晴らしさが世界に知られました。また、田村完誓著「世界史上の円仁」によって知ることができます。
円仁は、天台密教【てんだいみっきょう】を研究されて帰国された後、比叡山の第三代天台座主となられました。この円仁によって日本天台宗は大成したといわれています。
中禅寺湖
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円仁は仁明天皇の勅命をうけて848年(嘉祥元年)4月、日光に来訪されました。中禅寺【ちゅうぜんじ】に登られ、神宮寺【じんぐうじ】に7日間参護ののち、二荒山(男体山)に登り一泊して下山、中禅寺湖を舟で巡って薬師堂【やくしどう】をまつられました。下山されて、日光山内に三仏堂【さんぶつどう】と常行堂・法華堂【じょうぎょうどう・ほっけどう】を建てられました。
勝道上人の弟子たちは、円仁の徳を感じて天台宗に帰伏し、円仁の弟子と共に36ヶ坊を開かれました。それが日光一山衆徒の始まりと伝えられています。
円仁の日光来山によって中禅寺と山内への信仰が盛んになり、鎌倉時代には500坊をこえる寺院がたっていたそうです。とくに鎌倉将軍家の日光山への信仰は篤く、源頼朝【みなもとのよりとも】は三昧田として領地を寄進され、実朝【さねとも】は三重塔【さんじゅうのとう】などを寄進されたそうです。このころ日光山は関東の比叡山といわれ、仏教文化がもっとも花開いたときと伝えられております。
日光に現在も行われている祭事「延年舞【えんねんまい】」は円仁が残してくださったもので、なかでも天台声明は和讃から現在の歌謡曲、演歌の基になっているといわれています。
日光を離れた円仁はその後、東北方面に向かって松島の瑞巌寺【ずいがんじ】や平泉の中尊寺【ちゅうそんじ】、山形の立石寺【りっせきじ】(山寺【やまでら】)など有名な寺を開きました。863年(貞観5年)1月10日71歳で没し、2年後、朝廷より「慈覚大師」の尊号を賜りました。
仏教文化の栄えた鎌倉・室町時代には、数々の有名人、著名人が日光に参拝されていたようです。年代を追って歴史とともに一部ご紹介します。
860年(貞観2年)、大中臣清真(勝道上人の従弟)が、二荒山神社の神主となられました。日光山神主の始まりとなります。
1000年(長保2年)、このころ書かれた清少納言の「枕草子」の「橋は・・・・・」のなかに「山すげの橋」とあるのは日光の神橋のことといわれています。
1141年(保延7年)、藤原敦光が「中禅寺私記」を記されました。
1185年(元暦2年)2月、那須与一が日光権現・宇都宮大明神に祈願し、扇の的を射落とされました。
1192年(建久3年)、源頼朝が征夷大将軍となられました。
1210年(承元4年)、弁覚、日光山座主となられます。この頃、衆徒36ヶ坊の他に小坊300余と伝えられています。
1215年(建保3年)、弁覚により二荒山神社本社を造営されます。
1315年(正和4年)、仁澄、中禅寺の大造営を行います。
1476年(文明8年)、昌源、座禅院権別当となり、松や杉数万本を各所に植樹されました。
1509年(永正6年)、連歌師の柴屋軒宗長が来山され、「東路の津登」に院々僧坊およそ500坊と記されたそうです。
1590年(天正18年)7月、小田原北条氏に加担したため、豊臣秀吉に所領を没収されます。そのために日光山は衰退していきます。
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エピソード 児玉堂【こだまどう】
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弘法大師【こうぼうだいし】が日光山に登り、四本竜寺【しほんりゅうじ】に戻られてから、稲荷川【いなりがわ】に沿って開山堂【かいざんどう】のあたりを通り、滝尾山【たきのおさん】を開かれました。
美しい滝があり、その流れが布をさらすように見えたり、糸のように見えたりするので「白糸の滝」と名をつけられました。
滝のうしろに山がそびえ、その形が大きな亀が寝ているようなので「亀山」とつけました。そのふもとに大きな穴があって竜の棲家のようだったので、弘法大師は大竜穴【だいりゅうけつ】と名づけて、そこに住むことにしました。
竜穴の南に池があり「八葉蓮華池【はちようれんげいけ】」と呼び、その池のそばで7日間の修行をされました。不思議にも7日目に池の中から直径7センチほどの白い玉が浮かび出てきました。
弘法大師はその玉に向かって「何者じゃ」と問われると、白い玉は「われは天補星【てんぽせい】でござる」と答えられました。弘法大師はありがたく、白い玉を袈裟【けさ】に包んで持ち帰り、祠【ほこら】を建ててまつられました。これが現在、山内にある児玉堂【こだまどう】です。
滝尾神社
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それからまた、池のほとりでまじないを唱えると、今度は直径33センチもある大きな白い玉が浮かび出ました。弘法大師はますます喜んで「何者じゃ」と問われると、「われは妙見尊星でござる」と答えられました。白い玉は「この山は女体の神様のおられる所なので、その神をおまつりしてください。私の住む所は中禅寺です。末代になるにしたがって人々の心は悪くなります。ですから、私は人々の怠慢【たいまん】になる心を救いたい。」と告げてどこかに消えてしまいました。
弘法大師は中禅寺に妙見大菩薩をまつられ、ますます熱心に修行を続けると、雲の中から天女の姿が現れました。たとえようのない美しさ、尊さ、あたりはよい香りにつつまれ、なんとも神々しいお姿です。弘法大師は竜穴の上に社堂を建て女神をまつられました。これが「滝尾大権現【たきのおだいごんげん】」で祭神は田心姫命【たごりひめのみこと】です。
弘法大師は滝尾に永住しようとしましたが、京都に帰らなければならず、道珍に後を継がせて日光山を去ったと伝えらえています。
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