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日光のはじまり−関東の一大霊山「日光山」−
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日光開山の祖 勝道上人【しょうどうしょうにん】
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勝道上人像
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勝道上人は奈良時代735年(天平7年)4月21日、母の故郷である高岡の郷(現在の栃木県真岡市)でお生まれになったと伝えられています。幼少の頃は藤糸丸と呼ばれていたそうです。
藤糸丸7歳のとき、夢の中に明星天子という神が現れて、「あなたはこれから仏の道を学び、大きくなったら日光山を開きなさい。」と、告げられたそうです。
勝道上人28歳のとき(761年(天平宝字5年))、下野薬師寺【しもつけやくしじ】(栃木県安国寺)で試験を受け僧侶となりました。法名を厳朝【げんちょう】と言い後に勝道と改めます。
当時、僧侶となるための試験は奈良の東大寺、福岡県の観世音寺、栃木県の薬師寺と日本で3ヵ所しかなかったそうです。 766年(天平神護2年)3月、勝道上人32歳のとき大谷川【だいやがわ】の激流を神仏の加護を受けて渡り(現在の神橋【しんきょう】)山内地区に草葺きの小屋を建て、毎朝、礼拝石【れいはいせき】に座り、二荒山【ふたらさん】(男体山【なんたいさん】)の霊峰を拝しておりました。ある日、いつものように霊峰を拝していると、背後から紫の雲が立ち昇り悠々と大空に舞い上がって東北方面に吸い込まれました。勝道上人はこの壮厳なる風景に心を打たれ、その地点に急ぎました。その地点(紫雲石【しうんせき】)が、青竜【せいりゅう】・白虎【びゃっこ】・朱雀【すざく】・玄武【げんぶ】の四神守護【ししんしゅご】の霊地と感じ、この場所にお堂を建て「紫雲立寺【しうんりゅうじ】」と名づけたのが現在の「四本竜寺【しほんりゅうじ】」と伝えられています。1200年以上になる日光山の歴史のはじまりです。
勝道上人の墓石 |
翌年の767年(神護景雲元年)、大谷川の北岸に二荒山大神(本宮神社【ほんぐうじんじゃ】)をまつり、二荒山(男体山)の頂上を極めようと登山しますが、山道は険しく登っていくほど残雪があり霧が行く手をさえぎり、前に進むことができませんでした。しかし、弟子たちと周辺を散策し中禅寺湖【ちゅうぜんじこ】や華厳の滝【けごんのたき】などを発見することができたそうです。
それから15年後、平安時代に移り782年(天応2年)勝道上人48歳の春、弟子の教旻・道珍・勝尊・仁朝とともに苦難のすえ、遂に二荒山(男体山)の頂上にたつことがかないました。その地に二荒山大神を拝し祠(奥宮【おくみや】)をまつりました。あの素晴らしい雲海と日の出のご来光を勝道上人一行は生涯忘れなかったことでしょう。と、お話をしてくださった方が感慨深く言っておられました。
数年後弟子たちと中禅寺湖を舟で巡り中禅寺をお建てになられ此処に4年間滞在されたそうです。
810年(弘仁元年)には、四本竜寺が一山の総号「満願寺【まんがんじ】」を賜りました。
814年(弘仁元年)には、弘法大師空海【こうぼうだいしくうかい】が「沙門勝道、山水を歴 玄珠を螢くの碑【しゃもんしょうどう、さんすいをへ、げんじゅをみがくのひ】」を書き残されました。そこには日光山が補陀洛山【ふだらくさん】、観音の浄土であると書かれています。
816年(弘仁7年)4月、82歳の高齢で再び二荒山頂に登られたのち三社権現【さんしゃごんげん】の社を建立し、翌817年(弘仁8年)3月1日、山岳宗教に捧げた一生を閉じられました。
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エピソード 神橋
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神橋
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華厳の滝から流れる大谷川に足を止められた勝道上人一行は、護摩をたき、神仏の加護を求めたところ、対岸に赤と黒の衣をまとい、首に髑髏【どくろ】をかけた恐ろしい顔の深沙大王【じんじゃだいおう】が現れました。
「われは深沙大王である。昔、玄弉三蔵【げんぞうさんぞう】が印度【インド】に行ったとき、助けてやったことのある神である。助けてつかわそう」と赤と青二匹の蛇を放すと、蛇は大谷川の両岸にからみあって虹のように美しい橋となりました。
勝道上人一行は蛇のウロコが光って渡れませんでしたが、そのうちに蛇の背に山菅【やますげ】がはえて小道ができました。恐れも忘れ喜んでこの橋を渡り、振り返って見ると蛇は深沙大王の手に戻り、雲にのって空高く消えていきました。
その後、その場所に丸木橋をかけ「山菅の蛇橋」と呼ぶようになりました。
勝道上人は、お礼の意味をこめてのちに深沙大王のお堂を建ててお祀りしました。
お堂に扇の要【おうぎのかなめ】をはずして願い事をすると願いが叶うといわれ、特に花柳界【かりゅうかい】の信仰があつく、小雨の中、蛇の目傘【じゃのめがさ】をさして朱塗りの神橋の近くを歩く芸妓衆の姿は、とても絵になる風景だったそうです。 |
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